今、企業スポーツは大きな変革期を迎えている。長引く不況により企業がスポーツ部を抱えていることが大きな負担になり、スポーツを企業の広告塔や愛社精神の結束と高揚に利用することに以前ほどの効果が見いだせなくなっていることから、これからの企業スポーツのあり方が模索されている。そんななか、新日鉄では企業スポーツの新たな方向を目指し、野球部やラグビー部を始めとする7つのスポーツ部を、地域の住民や企業、自治体から支援を得て運営することを決定。これを受け、バレーボール部は昨年12月に法人化に踏み切り、株式会社ブレイザーズ・スポーツ・クラブ(愛称:堺ブレイザーズ)としてスタートし、地域に根ざしたクラブ運営に取り組んでいる。われわれSCIXはNPOという形態だが、目指すところはブレイザーズと同じ「地域密着型総合スポーツクラブ」の創設である。そこで、今回はブレイザーズのスーパーエースである中垣内祐一氏をお招きして、「地域密着型総合スポーツクラブ」の方向性などについて意見を交わした。

平 尾冒頭で、堺市には中学校が40校ぐらいあって、男子バレーボール部があるのは6、7校だという話がありました。それは人気低迷ということでもあるわけですが、日本の競技力が落ちてきていることも要因のひとつになっていると思うんですが…。

中垣内はい。非常に、責任を感じています(苦笑)。

平 尾アハハハ。

中垣内とくに私は、オリンピック予選で3回続けてプレーしていますからね。1回目は本大会に出場できましたが、2回目と3回目は予選突破できませんでした。そのすべての試合でコートに立ったのは私だけですから、責任は重く受け止めています。

平 尾というと、日本の男子バレーボールは、2回連続してオリンピックに出場していないということですね。

中垣内そうです。92年のバルセロナ大会には出場したんですが、96年のアトランタと昨年のシドニーには出られませんでした。こんなふうに代表チームが弱いというのは、人気低迷の一番の原因だと思います。少子化とかスポーツ離れの問題というのも、もちろんあるとは思いますが…。ラグビーの競技人口はどうなんですか?

平 尾減っています。激減です。ラグビーは15人でプレーするスポーツですから、メンバーが15人そろわないと試合ができない。そうすると、休部ということになって、さらに廃部に至るケースが多いんです。ラグビーをやりたいという子どもたちが5、6人いても成立しないんですね。そうしたこともあって、ここ数年ラグビー人口は著しく減っています。高校の全国大会でも、予選に出場する学校がかなり少なくなってきているんです。

中垣内残念ながら、バレーボールも同じように「激減」という状況ですね。さらに、競技人口が減っているから、高校生の逸材が少なくなってきている。たとえば、昔なら高校の全国大会に行って会場を見渡すと、2メートルクラスの選手がポツンポツンと見えて、195〜196cmの選手がけっこう目についたんです。ところが、最近は190cmを超える選手は数えるほどしかいない。本当に寂しい事態ですね。

平 尾でも、日本人は体格がどんどん良くなってきているわけでしょう。そういう子どもたちは、いったい何をしているんだろう(笑)。

中垣内そうですよね(笑)。バスケットやサッカーに流れているんでしょうか。

平 尾どうなんだろう。確かにバスケットやサッカーは人気があるし、野球も相変わらずといったところなんでしょうが。ラグビーについて言えば状況はバレーボールと同じだと思います。たとえば僕が代表の監督をしていた2、3年前に、全国の高校から優秀な選手を60名ぐらい集めて合宿をやったんですが、身長が185cm前後で抜群の運動能力があるという高校生がほとんどいなかった。

中垣内なるほど。

平 尾でも、少し前まではそういう選手が結構いたんです。ポジションでいうならば、6、7番のフランカーとか、8番のナンバーエイトあたりで。フォワードでも敵とガチガチ当たるよりも、少し後ろで走るようなプレーが要求されるポジションです。それから、バックスでも12、13番のセンターで、体が大きくてしかも足が速いという選手が出てきはじめていた。

中垣内日本人の体格が良くなってきていることを実感させるような選手ですね。

平 尾そうです。ところが、2、3年前ごろから、190cmを超えるような長身の選手が減ったし、そういった選手がいても運動能力が以前より劣っている。だから、身長があって運動能力も抜群の選手は、いったいどこに行っているのかと思って…。

中垣内ほんとうですね。バレーボールにも、いないんですよ(笑)。

 

●プロフィール
中垣内祐一(なかがいち ゆういち):1967年11月2日、福井県福井市生まれ。194cm、90kg。中学からバレーボールを始め、高校では同好会に所属。筑波大学に入ってから本格的に取り組み、1989年、大学4年ときの春の関東大学リーグでの活躍が認められ、全日本入りを果たす。同年開催のワールドカップに出場し、以来全日本のエースに。大学卒業後、新日鉄堺に入社。Vリーグ(日本リーグ時代も含めて)では、最高殊勲選手賞3回、敢闘賞3回、猛打賞3回、ベスト6賞8回と、数々の個人賞を受賞。また、92年のバルセロナオリンピックでは6位に入賞、ワールドカップ('89、'91、'95)、世界選手権('90、'94、'98)など、全日本選手として90年代の男子バレーを牽引。現在は、新生堺ブレイザーズでコーチも兼任している。

 

 
 
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