平尾今の話の中で、「レモンをスパッと切って汁がかかるような音」という表現を例に出されましたよね。僕は音楽のことはわからないけれど、その表現で「ジューシーな音」というのはイメージできる。僕にはものすごくわかりやすい表現です。でも、わからない人もいますよね。たとえばタックルするときに「すごく大事なものを盗んだ泥棒を捕まえに行くときのような」と表現したとするでしょう。それを聞いて、基本とか型なんかどうでもいいからなりふり構わず倒すようなタックルなんだと、ピンときてくれる選手もいれば、そうでない選手もいる。両者の違いは感度の違いだと思うんですが、だからこそ表現というのは難しいんだと思います。

佐渡平尾さんのおっしゃるように、全員に伝わるような共通の言葉というのは、あまり存在しないのかもしれませんね。

平尾だから、オーケストラのコンサートマスターのような人がいない場合は、とくに気を遣わなければならない。感度にあわせた言葉を発することが、より重要になってくると思います。つまり、1人のリーダーが30人を率いている場合は、1対30の関係ばかりではなくて、1対1の関係を30作ることも必要になってくる。そのためには、それぞれの感度をつかんだ上で自分の言葉を発する必要がある。「それはな」だけで伝わってしまう人間もいれば、言葉を尽くしたり、かみ砕いて伝えなければわからない人間もいる。そういうことが自由自在にできるのが、集団を束ねていく上で必要とされる能力だと思いますね。

佐渡その通りだと思いますね。で、今、言葉で思い出したんですけれども、バルセロナにアントニオ・ガウディが設計したサクラダファミリアという教会がありますよね。いまだに建設中で、完成まであと200年かかると言われていますが、その建設に日本人の外尾(悦郎)さんという彫刻家が参加しているんです。外尾さんはガウディが残した葉っぱとフルーツのモチーフの彫刻を任されたんです。形はある程度残っているからそれを見ながら石を削っていけばいいんだけれど、外尾さんはフルーツがある教会なんて見たことがないから「なぜ、ガウディはこれを作りたかったんだろう」ということが気になったわけです。ガウディは葉っぱとフルーツをかなり大きな象徴としていた。そこで、外尾さんは自分なりにいろいろ考えてみて、やっと結論が出たんです。

平尾どんな結論だったんですか?

佐渡日本語では「ことば」のことを「言葉」と書く。つまり、葉っぱというのは言葉を象徴しているのだと。人は本を読んだり、人と話したりして言葉を取り込むけれど、言葉のエネルギーを吸収して実を作らないとその言葉は自分のものにはならないと。だから、フルーツの実は人間の象徴だと考えたわけです。

平尾人間と言葉の関わりを象徴的に描いたものだと。

佐渡そう。そう考えたら、葉っぱとフルーツを作るのが楽しくて楽しくてしょうがなくなったそうなんです。

平尾素晴らしい話ですね。導き出した結論も見事だけど、与えられたものをただやるだけではなくその意図を自分なりに考えて結論を出し、自分のモチベーションが高まって「楽しい」というところまで行き着いたという、そのプロセスがすごくいいですよね。素晴らしい創作者だと思います。

佐渡そうですね。そういう発想はとてもステキだと感じました。

<<つづく>>

 
 
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