永 井確かに、おっしゃるとおりですね。サッカーの場合、変革がうまく進んだのは、トップだけでなく下部組織の指導者に至るまでが「このままでは、ダメだ」と感じていたからだと思います。しかも、ダメだというだけでなく、どうすればいいのかということも多くの人たちが知っていた。なぜなら、そういうモデルはいくらでも外国にあったから。クラブのシステムやコーチングの方法、若い世代の育成など、海外にはいい手本がたくさんあった。日本でもそれを取り入れればいいと、誰もが思っていたんです。だから川淵(三郎)さんが、Jリーグ構想を打ち上げたときにも、みんな「えっ、そんな考えがあるの?」と驚きではなく、「いつやるのかと思っていたよ。ようやく手をつけてくれたのか」という感じでしたね。

平 尾先ほどおっしゃったように、サッカーには世界標準となるワールドカップが早くからあって、その情報を通していろいろなものが入ってきていた。だから、そういう下地ができていたんでしょうね。

永 井もちろん、当時はワールドカップなんて別世界でしたけれどね。僕らの若いころは、日本とはまったく遠い世界の話で、「ワールドカップなんて、とんでもございません」という感じでした(笑)。

平 尾そんな状況の中で、永井さんがコーチを始められたのはどういったことからなんですか?

永 井
まさに、サッカーの負けを認めたところからなんです。当時の日本のサッカーについて、こんな指導をしていたら絶対にうまくならないと思っていたんです。僕自身の中には、「もっとこういう教え方をすればいいのに」とか、「こういう考え方で少年たちを育ててあげればいいのに」というものがあった。でも、現状はちっとも変わろうとしない。「じゃあ、オレがやってやろうじゃないか」と、思ったわけです。

平 尾変わるのを待っていられなかった、と。

永 井はい。僕には「こういう選手を育てた方がいい」という強い信念がありましたから、古い指導方法は全部捨てて、外国から学んだことや自分なりに考えたことを持ってコーチの道に入ったんです。僕は今、40代後半ですが、同世代にはそういう人間がたくさんいます。今なら、職業を問われて「サッカーのコーチです」と答えても理解してもらえますが、当時は「それで食べていけるんですか?」と怪訝な顔をされた時代です。でも、そうした中でも情熱に駆られ、生活も未来も顧みずにコーチの道に走ったという人が、当時はたくさんいました。

平 尾神戸にも、そんな人、おりますね。加藤寛さん。ご存知ですか?

永 井はい、神戸FCにいらして、現在はヴィッセル神戸ですよね。

平 尾とても熱心な方で、SCIXにも理事として参加していただいています。

永 井そうですか。当時、僕らにとって加藤さんがいらした神戸FCはお手本でした。普通の町のクラブから公益法人化をして、組織を整えた。つまり、今のJリーグでやっていることを先取りしていたんです。二十数年前のことですが、僕らは神戸FCを手本にしながら、クラブチームを作ろうと頑張ってました。サッカーの冬の時代に、そういう人間がたくさんいたんです。だから、“Jリーグ”という花火が上がったときに、バーンと火がついたんだと思います。

<<つづく>>

 

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